furufur’s blog

日々の書き溜め。所属している団体、組織には一切関係ないよ。

【ネタバレ注意】君の名は。の円盤が擦り切れる勢いで観ました。

先日地上波で放送された「君の名は。」について、自分の考察と作品の設定などを踏まえたメモを書いていきたいと思います。

なんせ映画館で5回は見てますからね。ほぼ一人で。

Blu-ray初回生産限定盤も買ったし、もうすごいよ。

前職の時は通勤前にZIPじゃなくて「君の名は。」を見ながら身支度していたぐらいに好きなんです。

 

めっちゃくちゃマニアックだし、すごくネタバレなのでまだ観ていない方は絶対に読まないでください。

いや本当に読まないで。

観てても読まないで欲しい。

フリじゃないから。

本当に。

ネタバレすごいから。

 

 

こんだけ言ってるんだからいいでしょう。

ネタバレ注意です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆主要登場人物と設定

 

宮水 三葉(みやみず みつは)

糸守町に住む女子高生で、代々継がれてきた宮水神社の巫女。

糸守町の町長である父親がいるが、現在は祖母と妹との三人暮らし。母親とは幼少期に死別している。

この作品の主人公の1人。

随所にハリネズミのグッズを所持している描写があることから、相当に好きだと伺える。

田舎である糸守町の閉塞した環境に嫌気を感じており、都会である東京に並々ならぬ憧れを抱く

名前の由来は古事記に書かれている弥都波能売神(みづはのめのかみ)で、水を司る神様と言われています。

 

 

立花 瀧(たちばな たき)

東京に住む建築付きの男子高校生。

主人公の1人。

オシャレなイタリアンレストランでアルバイトをしながら、建物のイラストを描いたりしているイケメン。

スマホで日記を書いていたり、片思いしている人の写真を撮って保存して日記に残してしまうほどに初心。

父親との二人暮らしで、母親に関しては作品内で言及されていなかったため不明。

名前の由来は三葉の由来にある神様からのつながりが予想される。

 

宮水 一葉(みやみず ひとは)

三葉の祖母。

宮水神社の現当主であり、町の顔役となっている。

孫の父親たちが家を出てからは、女手一つで孫二人を育て上げるほどにたくましい。

登場時は82歳なのに若い。

次代を担う三葉たちに、糸守に受け継がれてきた歴史と、組紐の作り方を教えるなどして暮らしている。

 

宮水 四葉(みやみず よつは)

三葉の妹。

小学4年生で、いつも姉を起こすたびに襖をこれでもかというほどの勢いで締めていく。

だいたいお姉ちゃんや家族に振り回されている苦労人。

家族の確執や、伝統にあまりこだわりはないらしく普段は快活な性格。

 

勅使河原 克彦(てしがわら かつひこ)

三葉の高校の同級生で、父が糸守町で建築業を営んでいる。

オカルトマニアの愛読書「ムー」が好きでよく読んでいる。

機械オタクでもあり、部屋には無線機などの機械が散乱しているほど。

密かに三葉へと恋心をいただいてる描写がある。

あだ名はテッシー。

 

名取 早耶香(なとり さやか)

三葉の高校の同級生。

おっとりしている常識人で、三葉の親友。

テッシーのことが好きだけど、テッシーは三葉のことが好きだしで三角関係になっているのに三葉に対してなんの嫌味も言わず気をつかっている本当にいい子。

実は姉が役場の放送担当。

あだ名はさやちん。

 

宮水 俊樹(みやみず としき)

三葉の父親。宮水二葉の夫として、宮水家に婿養子として入る。

結婚前は民俗学者として働いており、糸守町で二葉に出会ったのも学者として調査にきていたことがきっかけだとされる。そこからは宮水神社の神主となるものの、二葉の死後、宮水という名に縛られる家族と町の様子に怒りを覚えて改革のため町長へとなる。異色のキャリアの持ち主。

 

奥寺 ミキ (おくでら みき)

瀧のアルバイト先の同僚の女子大生。

女子大生とは思えないほどの大人っぽさと、色気がすごい。

ハキハキとして、頼れる先輩という感じの性格。

実はタバコを吸っていたというかっこいい。キャラがたっている美人。

女子大生?本当に?色気がすごいよ?嘘でしょ?

いつの時代の女子大生???

 

藤井 司(ふじい つかさ)

瀧の高校の同級生。

インテリメガネイケメンで、友達思いのすごくいい子。

建築にも興味があるようで、よくカフェなどに瀧たちと出かけては構造を見たりしているみたい。

 

高木 真太(たかぎ しんた)

瀧の高校の同級生。

体格も良く、笑顔が素敵なナイスガイ。

瀧、司たちとよく建築の話をしているらしい。

 

 

糸守町

岐阜県の田舎をモチーフとされている架空の町。

糸守湖という湖を中心として、周辺に住居が並ぶ町。

歴史としては長く、古くから宮水神社の人間が町の中心となっていた。

 

御神体

宮水神社の御神体は、町の中心部にはなく、山の頂にあるカルデラ地形のところにある。

小さな祠のようなものが存在し、宮水神社の人間が都度お供えをする決まりになっている。

供物は代々の巫女がつくる口噛み酒。

 

ティアマト彗星

今作のキーワードとなる彗星。1200年周期で地球のそばを通過している彗星で、君の名は。の世界での2013年10月4日に最接近している。「ティアマト」とはメソポタミア神話における全ての母である原初の神の名前であり、その姿は巨大な蛇、竜のようだとされる。

 

かたわれ時

黄昏時、彼は誰時の別称。

夕方の昼でも夜でもない時間を指している。この呼び方は糸守町特有の方言とされる。

日本ではこの時間を逢魔時(おうまがとき)と呼び、人ならざるものに出会える時とも言う。

これは目の前の人の顔がよく見えずに、誰かわからない本当に人であるのかという疑心から生まれた言葉であると推測されます。

 

◆序「それはまるで夢の景色のように、美しい眺めだった」

 

・ストーリーが始まると主人公の語りと同時に、彗星の落下が描かれる。

映画館で初めて見た時には彗星と空の絵が綺麗すぎて泣いた。そこから、神木くんと上白石さんの二人が「それはまるで夢の景色のように、ただひたすらに、美しい眺めだった」とハモるところでも鳥肌が立って泣いた。

開始10分ほどで二回泣いた映画は後にも先にもこの映画だと思う。あとOPとも言える夢灯籠が流れてきた時はポップコーンをなぜか投げつけそうなほど興奮していた。この時点で1800円の価値を感じたので帰ってもよかった。

 

夢灯籠が終わると舞台は糸守町へと移り、三葉と瀧がすでに入れ替わっていることがわかるシーンが少し映る。翌朝、三葉が学校へ登校すると昨日の様子がおかしかったことを周りから指摘されて疑問を感じている。別の人の人生の夢という、薄らぼんやりとした認識はあるものの確証はないような。ここで入れ替わりは現実のものというよりは、夢のように本当かどうかもわからないようなものであると説明が入る。現実のことならば覚えていないわけはないのだし、夢を見た後に思い出そうとすると霞がかかったようになる感覚を三葉は覚えています。

 

・テッシーとさやちんがベンチに座りながらコーヒーを飲んでいるシーンがあるのですが、さやちんの「テッシーは高校卒業したらどうするの?」という質問に対して「別に。ずっとこのまちで暮らしていくんやと思うよ」と答えるんです。これからも町があることが当たり前の未来がテッシーは頭の中にあるのですが、しかしこれも彗星によって変わってしまいます。ラストでてっしーとさやちんらしきカップルが結婚式の話をしているのですが、特に変わりもなく元気そうに行きているんですね、希望を持って。町の暮らしが当たり前であったのに悲惨な災害にあっても、人は前を向いて生きていけるというメッセージなのかなとも思いました。

 

 

・宮水神社の祭事が近づきつつあるということで、奉納する組紐をつくる宮水家。

宮水家の女性陣が三人とも着物に着替えて組紐の作業をしている中、お婆ちゃんから糸守の歴史が語られる。

そう、この時語られる中に繭五郎の大火というものがあって組紐を作る意味や、宮水神社の歴史などが綴られた古文書などが全て燃えてしまったという。

草履屋の繭五郎に最初はうっかりだなあと同情していたのだが、見終わった瞬間にこいつのせいで!!!!!となってしまった。

草履屋なのになんで火がそんなに燃えるんだよ、うっかりにもほどがあるくない?種火でかすぎでしょ、何を燃やしていたんだお前はと問い詰めたくなる。繭五郎のせいで主人公をはじめとする糸守町の人間は一回死んだようなものだし、でもこいつが火事を起こさなかったら瀧と三葉の入れ替わりもなかったんだからある意味恋のキューピッド繭五郎なのかもしれない時代めちゃ超えてくるなと思ったりで、複雑な気持ちになる。

「意味は消えても、形は決して消しちゃいかん」というお婆ちゃんの言葉からも、代々受け継ぐことを義務付けられたことがわかるし重要なことなのはわかるんだけど。燃えちゃったら諦めないで思い出して残しておいてほしいよ当時の人。

 

・宮水神社の祭事が始まると、巫女装束をまとった三葉と四葉が舞を踊る。

完全なネタバレになるけれど、この舞をよく見るとティアマト彗星が落下して割れるような表現がされている。さらに、ティアマト彗星という名前から作品中ではよく龍に例えられてこの彗星が描写されているが三葉と四葉が舞踊中に持っている錫杖のようなものも龍の装飾があしらわれていたりと彗星による災害が暗示されているのではなかろうか。

 

・今度は三葉が瀧の身体に入れ替わっているシーンへ。司がイケメンでしかない。奥寺先輩にスカート脱いでくださいって言ってそのまま許してもらう瀧くんってすごいし、奥寺先輩の包容力がすごい。

あと、イタリアンのレストランでわざわざ爪楊枝を持ち歩いてきて、カッターも持ってきているチンピラはなんなんだ。無銭飲食の七つ道具とか言ってまだまだ出してきそう。虫のおもちゃとか、髪の毛の束とか。爪楊枝はケースに入れて持ち歩いていたのだろうか。

 

 

◆破「入れ替わってるー!?」「入れ替わっとるー!?」

 

・なんやかんやあって互いの入れ替わりを自覚する瀧と三葉。それからは入れ替わり時の記録を日記に残すことで、二人の生活を守っていこうと協力を始めます。

この時に瀧くんが三葉へ残した日記が一瞬写るんですけど、めちゃめちゃかっこいいこと書いているのでテレビ放送を録画した方はぜひコマ送りでもう一度見て確かめてください。

 

・瀧が三葉に入れ替わっている際に、宮水家の御神体への奉納が行われる。糸守町の外れにある山の頂にある祠へと参ると、カルデラ地形の中心になった御神体の周りは川が流れている。この川を指して「ここから先は隠り世」というセリフがお婆ちゃんから話される。隠り世とはあの世のことなのだが、四葉は「あの世やー!」といって笑顔で渡っていく。怖いもの知らず過ぎる。

三途の川という言葉があるように、彼岸へ行くための道という意味で言っているだけかな?

後々の伏線にもなっている気がする。

 

・「むすび」という言葉がお婆ちゃんから何度か伝えられます。「寄り集まって形をつくり、ねじれて、絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。それが組紐。それが時間。それがむすび。糸を繋げることもむすび。人をつなげることもむすび。時間が流れるのもむすび。」という話は、君の名は。を貫く主題でもあると思います。ここでいう「むすび」というのは、「結び」とも読み取れるのですが、神道の考え方に「産霊(むすひ)」というのがあって、これは神的なものがすべてを司っている、万物はこの産霊によって形作られるということなのですがこの意味も含めたむすびという言葉が劇中では使用されている気がします。

 

・本編とはあまり関係ないけれど、RADの「前前前世」は映画上でしか流れない部分があるんですよこれがストーリーとマッチしていてほんともういい仕事するなって思ったポイントです…

 

 

◆急「彗星…?」

 

・三葉との入れ替わりが終わった直後、瀧が目覚めると三葉がセッティングした奥寺先輩とのデートへ赴くことに。デート先で糸守町の景色を撮影した写真展へ行くことになるのですが、ここで瀧の中に三葉の影を見ることで瀧への想いを断つんですね。帰り際も瀧への気遣いというよりは、ちょっと拗ねているような。美人で、自分が相手にされていないとわかるとか奥寺先輩すごい。

 

・入れ替わりが起きなくなってから瀧はなんとか三葉に会おうとするのですが、場所もわからなければ、町の名前もわかりません。その代わりに町の風景を描いているのですが、高校生とは思えないほどうますぎて怖い。建築とかデザイン好きな人ってこんな風に描けるのか…

 

 

・三葉たちを探すために、瀧と合流した奥寺先輩と司たちは共に捜査するも見つからず徒労に終わったかと思って偶然入ったラーメン屋の高山ラーメンがめちゃくちゃ食べたい。

 

・糸守町の現実を知って打ちひしがれる瀧たちは一泊するために民宿に泊まるのですがここの奥寺先輩の浴衣がもう、ええ………

 

・朧げな記憶を頼りに、最後の希望である御神体へとラーメン屋のおじさんの協力を得て向かう瀧。この時に御神体へ向かう彼に向けて弁当を持って行けというおじさんが言うセリフが渋くて、思いが詰まってて高山ラーメーーーーーーン!!!!と思いました。

 

 

・暴風雨の中なんとか御神体へとたどり着いた瀧、現実であったことを喜ぶのもつかの間、早速三葉の口噛み酒を飲んで入れ替わりを引き起こそうとするのですがここからの描写がめちゃ綺麗。トリップしているようなイラストが流れて、三葉の記憶をたどる中で隕石の動きがある部分があります。これは、鳴き声などもあることからして龍をイメージしているように思えます。ティアマト=龍ということなんでしょう。

というかこれ、書いている途中に気づいたのですが、瀧という時って龍とさんずいへんなんですよね。水を司る神様から名付けられた三葉と、龍をイメージされた隕石であるティアマト彗星を結ぶのが瀧…………

 

新海監督!!!!!憎い!!!!!!大好き!!!

 

・なんとか入れ替わりが起き、瀧は彗星被害を食い止めるために奮走しますがなかなかうまくいかず。三葉へと会いに御神体へと向かいます。この時三葉が実は、三年前に瀧に会いに東京に言っていたことが明らかになるのですが瀧くんと向かい合った時の三葉が可愛すぎてすごい。別れ際の最後に組紐を渡したことで、瀧との縁がつながったところがいい。

 

カルデラ地形の御神体周辺部にて声は聞こえるけれど、姿が見えない瀧と三葉。

しかし、お互いがすれ違った時風鈴のような音がなるとすぐそこにお互いがいることを認識します。この時の風鈴の音というのは、古来から鈴の音というのは霊を呼び寄せ、霊が近づくと鳴るとされているものだったからではないかと。

終盤で大人の彼らがすれ違った時に鳴ったのも、この時の名残があったからではないでしょうか。

・かたわれどきはもう。言うことがない。最高すぎて。尊すぎて死ぬ。初めて見た時に恥ずかしすぎてポップコーンで目を覆いました。

 

かたわれどきは、黄昏時の別称という話が冒頭あったのですがこれは糸守町限定の言葉らしき描写があるのでおそらく、1200年前の町民が彗星が割れる時間帯を指して片割れどきという言葉が生まれたと推測できます。

 

 

・好きだ!!!!!!!

 

終「君の、名前は…?」

 

・ティアマト彗星落下から8年。瀧たちは就活生として、面接に苦労しているシーンが映ります。見た時は就活生だったので古傷がえぐられるようでした。

瀧、司、高木がそろっているのがほほえましいし、集まっているのがおそらく三葉が入れ替わっている時にきたカフェな気がして尚尊い

 

・この時司が指輪しているんです。

あとで出てくる奥寺先輩も指輪しているんです。

……………

 

 

・奥寺先輩と糸守町について話をしたのが記憶を呼び起こしたのか、図書館で糸守町の写真集を読む瀧。この時の神木くんのモノローグを聞いた時に鳥肌がたちます。今でも。

徐々に音が流れる太鼓のような音と、神木くんのブレスがすごい。

 

・最後、瀧と三葉が出会う瞬間。三葉はすれ違って声をかけようとするのですがうまく動けないんですよね。おそらく、中学生の瀧と出会った時に知らないと言われたことがあとを引きずっているのかもしれません。そこで勇気を振り絞って、今度は瀧から三葉へ声をかけるわけです。現実では合っていないけれど、確かにお互いに惹かれるものがあって普通の男女として出会う二人。

タイトルを回収して「なんでもないや」が流れ始めます。

 

 

 

 

冒頭から、終盤までストーリー交えながら心に残ったことを書いてきました。

読み返すとだいぶ気持ち悪い。オタクでした。

なんでこんなに1つの作品が好きなのかを考えると、「君の名は。」は

「連綿と続いてきた物語の要素を盛り込み、現代のものへと昇華させていること」と、「妥協なき細部へのこだわり」の二つがはっきりしているなと感じさせてくれるからです。

 

ちょこちょこ紹介しましたが、古来より言われてきた音の意味や、言葉の使い方を混ぜ合わせて違和感のないようにしているところが物語を古くさせない、日本が育んできた文化をエンターテインメントに融合させている点が面白い。

 

また、新海誠監督といえば背景画の綺麗さが有名ですが。今作も本当に期待を裏切らない美しさでした。映画館に入って観た彗星が落ちるシーンは、美しさで感動しました。

またRADWIMPSとのコラボもそうですが、本当に細かい。意味がない部分がないといってもディティールにこだわって、つくられているのがわかります。

人を感動させる作品は、本気で作られたものしかないんだというのが感じられた素晴らしいお仕事をされていらっしゃいます。

 

 

 

書いていたらもう一度観たくなったので、観よっと。

 

 

 

それでは、6000字を超えているのにここまでお読みくださった皆様ありがとうございました。

それでは。

最後の晩餐に何を食べたいか考えました。

地球最後の日に何を食べるだろうか。

 


いや食べている場合じゃないかもしれないんだけど、もし明日地球が滅亡することが朝起きたらニュースでやっていてもうどうしようもなかった時。

絶望すぎる。

 

ただぐだぐだ言っていてもしょうがない、だって終わるんだもん。

 


地球終わっちゃうよ?そんなこと言っている間に。
最後の晩餐を何にするのか決めないと、イオン混んじゃうから早く決めないと。

 

 

 

とは言っても、そんな状況にもし置かれたら僕は冷静に何が食べたいかを選択できるだろうか。


ここでは最後の晩餐は慎重に選ばないといけない。

 


にもかかわらず、食べたことのないもの、例えばキャビアとかフォアグラとか食べたいと言い出す人はもう信用できない。


確かに興味はある。

どんな味がするのか、どうせだったら最後に食べておきたい。

 

わかるとも、僕だってそう最初に思った。
ただ考えてみてほしい。

 


地球が終わるのだ。

 

明日には。

 

0時00分にきっかり終わるのかはわからないのだが先に続かないのである。

ここで得た経験はもう使えない。たとえ美味しくて、

 

「すごく美味しい〜。

もう一回食べたい!あ、インスタのせよっと♫#最後の晩餐#最後に#キャビア#食べた#味わからん笑#集まれんかった人も#今度は全員で行こ#地球明日で終わるの忘れてた笑」

 

となってももうだめ、誰も見ていない。

 

最後の晩餐ハッシュタグなんて誰が見るのか。

 

それに、万が一自分の口に合わなかった時はもっと悲惨だ。最後に食べるものが、どんな味だろうと楽しみにしていたらまさかこんなにまずいとはと絶望しながら終わりを待つしかない。

 


僕の個人的解釈を述べさせてもらえるなら、これは死装束と似たようなものだ。

 

終わりへの気持ちを整えるための食事。

 

言わば死に食。

 

穏やかな気持ちで最後を迎えるための食事が、食べたことのないものというよくわからなないものでいいのか、いやいいはずがない。

 

 

だが23年間生きてきた僕の貧相な人生でも、食べてきた食事の数は膨大な量になる。

 


朝昼晩と食事を摂っていれば、単純計算で一年間で1095食。23年間で25,185食だ。もう昔のことは全然覚えていないが、とにかくこれまでの経験から最適な答えを導き出さなければならない。

 


特定の店の食べ物はもう食べられない、もう営業していないだろうし場所的に無理なところが多い。


だとすると絞られるのは、身近な誰かに作ってもらった、もしくは自分で作った料理だろう。

 

存命している家族であれば最後となればなんとか作ってくれるだろうし、自分であれば材料さえ揃っていればつくることができる。

 

解が見えてきた。あとは示されたピースを選ぶのみ。

 

 

カレー、シチュー、オムライス、ハンバーグ、卵焼き、おにぎり、焼き鳥、お寿司、焼肉、ロールキャベツ、ラーメン、餃子、炒飯、パスタ、ドリア、茶碗蒸し、エビチリ、海老マヨ、鮭の塩焼き、ブリの照り焼き、さんまの塩焼き、竹輪の磯辺揚げ、たこ焼き、お好み焼き、うどん、そば、天ぷら、パンケーキ、煮物、コロッケ、シーザーサラダ、ナン、コールスローハンバーガー、ポテトサラダ………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無理だ。

 

 

決められない。

最初カレーを書いた時点で決まったと思ったが海老マヨを書いたあたりから全て食べたくなってしまった。


もうバイキングがいい。最後の晩餐は。

 

これまで食べてきて美味しかった料理をバイキング形式にしてほしい。5星ホテルの料理人が集結して地球最後の晩餐バイキングを企画してほしい…

 

ということで地球が滅亡する時に食べたい最後の食べ物は、バイキング形式で気になるものを好きなだけ食べることにした。
最後なんだから、美味しいものを食べて満足したいし一つに絞るとか無理無理。
みんながそれぞれ食べたいものを食べれたら良いよね。

 

 

 

 

 


解散!!

田舎の夜道

18時だというのにもう暗い。

毎年飽きもせずに、まだこんな時間なのにもう真っ暗だねと言ってしまう季節がやってきた。

 

 

 

冬は星が綺麗に見えるからいい季節、だというのにすっかり雲が空を覆ってしまい光を遮ってしまっている。せっかく上を向いて見たというのに、やるせない。

これでは寒いだけじゃないかと思ってしまう。

 

 

お月様の光も届かないぐらいの田舎の暗闇で、少し前に友人と話をしたことを振り返ってみることにした。

 

 

「相手がどう思っているかもわからないのに、よくご飯誘ったり、笑顔で遊びに行ったりできるよねって思ってたんだよ。今はそんなに病んでるわけじゃないけど(笑)」

 

久しぶりにあった同級生は学生時代にあまり学校に来ない人で、5年ぶりぐらいにあったというのにいきなりそんなことを言うひねくれ者だった。そっちから誘っているくせに。

かと言って別に問題のある人間と言われれば常識の範囲内におさまるぐらいだったと思う。

だけど、周りが普通ではいさせてくれなかったのだろう。

大多数の価値観とずれているというだけで、攻撃してもいいという大義名分が生まれてしまう異質な空間だったから、詳しくは語らなかったけれどそこで人付き合いが嫌になったのかもしれない。

 

お酒を久しぶりに飲むと言う彼から色々今の自分に対してお説教のようなことを言われ、何も言えなくなるとフォローのように「まあでも…」みたいな感じで褒めてくるのが面白かった。

頼んだウィスキーのロックの氷を見つめながら、コロコロとグラスを回していると。

「自分に関わっている人たちが、自分のことをどう思っているのかなんてわからないって怖くない?さっきまでバカやって一緒に笑っていたやつが、別のところいったら自分のことを悪く言ってるなんてよくある話じゃん」

だからあの時は狂いそうだったよ、と真剣な顔をして話す彼からは、それでも同情してほしいというような雰囲気は感じなかった。

 

人間関係なんて友人、上司、恋人からの自分に向けられた言動や、周りからの話からでしかわからない。その人が本当の意味でどう思っているのかなんて恐らく一生かかってもわかりあえないだろう。ゲームみたいにパラメーターが見えるわけじゃあないのだ。

 

「こんなこと考えてたってきりがないのはわかってるよ、でもなんか、自分が本当にここにいていいのかわからなくなるじゃん」

 

だけど、だからこそ大切に思う人には言葉や、行動で示してあげないと伝わらないんだと思った。

自分の周りにいてほしいことを伝えないと不安に思ってしまう人もいるし、真実いてほしいならためらうべきではない。伝えることで全てが叶うわけでは、もちろんないんだけど。

この言葉を聞いて、余計にそう思う。

 

 

 

 

 

 

 

神奈川や東京のすぐそばに誰かがいるほどに溢れている都会とは違って、周りに誰もいない夜の田舎は二重の意味で寒くなる。

いまだに曇った空は全然星を見せてくれないし、ガソリンスタンドの明かりしかないけれど、なぜか少しその光をみて暖かくなる。

 

人は1人で生きていけないというのは、生きる意味を見失いがちになるからかもしれない。

暗い道を帰りながら、ベロンベロンになって帰った友達を思い出す。

 

「きっとみんな不安なんだと思う。隣にいる人が本当に自分を認めてくれているのか。だけど、そんな不安に押しつぶされないように誤魔化したり、夜に死にそうになりながらも悶えて耐えてる。めちゃくちゃ押しつぶされそうになるけれど、それでももっと仲良くなりたいとか、つながりを無くしたくないから一歩踏み込もうとするんだよ」と、お酒の力を借りれば今ならそう返せるかもしれない。開口一番にあんなことを言ってくる大事な友人に。

 

 

 

田舎の夜道は明かりがないという意味では怖いし、暗くて寒くて嫌になるけれど、時折風で流れていく雲の隙間から見える星が綺麗なのは、いいと思った。

 

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エモいってどういうことやねん。

みなさんこんにちは。

最近、澤野弘之という作曲家の方にはまっているふるふるです。

 

 

進撃の巨人」や「医龍」のBGMを作っていらっしゃる方なのですが、ドラマやアニメの曲だからといって侮るなかれや。作品にとってメインではなくとも音楽があることによって感情が揺さぶられることもあると痛感させらる曲ばかりです。

澤野さんの曲をBGMにしているだけで自分が主人公になった気持ちで仕事や課題に取りかかることができるのでオススメです…

 

急な話ではありますが、みなさん「エモい」とか「マジ卍」とかって言葉はご存知でしょうか?

10代、20代の方であれば実際に使ったり、聞かれたことはあるかと思うのですが、それ以上の年代になると初めて聞いたという方もいらっしゃるのではないかと思います。

実際、僕もエモいという言い回しは普段よく使うのですが意味はよくわかっていません。

なんとなく「好き」とか「熱中している」みたいな感覚では捉えているのですが、そういった感情を表す広い表現として使っているイメージです。

 

こういう新しい言葉を聞いたり、使ったりするたびにこれって語彙力の低下とかまた言われるのかなあと思ったりもするのですがじゃあそもそも語彙力ってなんなんだよって考えると、単なる知識の総量の話では少し違和感があります。

 

語彙力が高いということは、知識として言葉をたくさんしっているという意味だけではなく、自分や他人の感情や考えを、微妙な意味の違いを持つ数多くの言葉の中から定義することができるかどうかというところまで含めているように思うのです。

 

 

「言葉」は概念を捉えるツールということをどなたかがおっしゃっていましたが、

自分の感情(誰かに対して怒りを覚えたり、好意を感じたりすること)を捉えることも言葉の力であると思います。

感情やアイデアという繊細でとらえどころのない、ともすればふわふわと浮かんで消えてしまうような自分の中にあるものの形を決めて固めてしまう。

れが言葉の持つ役割の1つです。

これをいかにうまく使って仕事を進めていくかという話も別でありますが、それは置いておいて。

「愛している」という言葉1つとっても、親愛、友愛、恋愛、博愛…ということ言葉がいくつもあるように感情は細分化していけばいくほど自分の本当に感じている気持ちに近づきます。

この捉える言葉の総量と、適切な形に固定化する能力が高いということが語彙力が高いというような気がします。

 

人の気持ちを考える、という小学生の標語みたいなことですが、ここをうまく捉えていくことができれば相手との信頼関係を築くことや、先ほど述べたアイデアを形にするという仕事には必要になってくるんじゃないかなあと。

 

 

 

 

 

「エモい」とか「マジ卍」という言葉、ちゃんと理解しようマジ卍

 

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こたつから出ることで得られるものもある。

 

子どもの頃から、新しい人間関係を築くことに対して億劫になる性格でした。

「相手が話しかけてくれたらしゃべろう」

なんて考えていた可愛げのない子どもで、あの頃から少しは大きくなった今ならもったいないと後悔もできるのだけれど当時は「なんとか保っている今の、楽しいと思える生活を壊したくない」という気持ちでいっぱいだったのだろうと思います。

 

自分から動くことで、うまくいっている今の幸せを壊したくなかったし、人間関係を広くすることに価値を感じることもありませんでした。

 

そうやって捻くれながらもなんとか勉強して、大学に入って、ハッピーアースデイ大阪関西ギャザリング2016というイベントに参画してからは、そんな考え方も少し変わりました。

 

同じ場所にいて、仲のいい友達や仲間たちと活動をすることは確かに楽しい。

周りも知っている人ばかりで、受け入れられているという安心感があるし、居心地もいい。

 

だけど、多分それは停滞で。

今まで自分が知らなかった新しいことに出会わないと、自分のことは否定されないし、楽なんだけれどそれ以上きっとどこにも行けなくなってしまう。

 

今いる場所より遠くへ連れて行ってくれるのは、出会った人からもらった知識や経験と、そこで育まれた自分の価値観の積み重ねだと思います。

 

人は、その人だけが持っている経験と知識、価値観があるもの。

 

自分とは違う人と接することで、自分の価値観は変わっていくし、うまく磨かれることで世界への解像度が上がって、ピントも合っていく。

 

新しい人や、環境に自ら関わっていくことは、少なからずストレスに感じるし、知らないものに向かいある怖さもある。

 

でも、すでに居心地がいいといえる場所を見つけているのならばきっと怖がる必要はそこまでなくて、失敗したら戻ってこれる場所があるってことなんだから。

 

知識と経験を蓄えてよりくっきり世界が見えるようになれば、きっと自分が行きたいところも見つかるし、やるべきことも見えてくるのではないかと思います。

 

新しい人やものに向かい続けることが、多分自分を強くしていく方法の1つではないかと。

 

 

信じられることの難しさ

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みなさんこんにちは。

最近「君の名は。」熱が再び盛り上がってきたふるふるです。

神奈川の家から持って帰ってきたんですけどずっと見てます。出かける前に観るとすごい元気になれるし、誰かと出会えそうな気分だけ味わえるのでオススメです。新海監督の設定のここがすごいんだよ!っていう話を親にしていると、普段こちらが何も言わなくてもしゃべりだす母親が話を切り上げようとしてきたので相当に引かれていたと思います。

 

 

 

 

今回は「信頼される仕事の姿勢」をテーマに、自分も短い期間ではありますが、営業として社会人経験をしてきたことと、これまで仕事ができるなーという方々を間近で見ていて感じたことを不信を抱かせてしまう人、信用される人、信頼される人と分かれしまう条件を書いていきたいと思います。

 

不信を抱かせてしまう人

 

とにかく当たり前のことができないとお客様にまずは信用していただけません。

基礎基本ができていないと、お客様が求めているものを提供できないから当然ではあるのですが。初歩的なところでいうと、敬語の使い方、話を聞く姿勢、自分が扱っている商品やサービス、所属している団体への理解が足りていないとなると話を聞いている方はなんだか不安になってしまいます。相手を敬う態度が感られない人に対しては、プライベートでも相手にしたくないでしょうし、自分が何をしているのかもよくわかっていない人の話を聞く気にはなれないですよね。

敬語や姿勢は気にされない方もいますが最低限、失礼にならないような態度を心がけるのは必要かと思います。

 

 

信用される人

 

基礎基本ができて、正確に理解して行動できる人。

先ほどの不信を抱かせてしまう人がしてしまう行動を社会人として求められるレベルでクリアしていれば、お客様が安心して話を交わすことができると判断してくれます。

ここまでできてやっと仕事できるかというところ。

相手からの信用を得ないことには話を聞いてくれさえしてもらえないので、相手が求めているレベルの姿勢を達成することは必須条件だと思います。

 

 

 

信頼される人

 

基礎基本もでき、正確に行動でき、なおかつ相手を思い遣る言動ができる人が、お客様に信じられ、頼られることになるかと思います。

マニュアル通りに正確に、商品やサービスを提供できるようになるのもかなりの努力が必要ですが、さらに相手への気配りを忘れずにしているとお客様に与える印象が段違いです。

以前の仕事をしている時も、先輩社員にお客様から電話があり自分の用事は終わったけど、友人の人が同じように困っているから話を聞いてあげて欲しいとか、単純に相手から求められる仕事だけを果たしているだけではこのようにお客様に頼られることってなかなかないと思うんです。

もちろん自分たちしかしていないサービスや、販売していない商品があれば別なんですけど、大概の業界は競合他社が犇めく中で仕事をしています。

同程度のサービスを享受することは少し手間はかかるかもしれないけれどできる。

レベルがほぼ同じで、人が対応するのであればそこに相手への想いが行動となって真摯に現れる

ところを選びたいと思うのが通常です。

信じて話を聞ける人ではなく、自分から頼ることを選択できるほどに信頼できる人になるためには、青臭いかもしれませんが相手への想いがないと難しいのではないかと思いました。

 

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仕事に関わらず、活動もすべてそうですが、自分と同じで相手の時間も消費させるているということを意識して、相手への敬意と基礎基本を完璧にすると目指すところがまずはしないといけないところだろうなーと思います。

右も左もわからない時はとにかく誠実に相手と向き合い、至らないところはどうにかして補う努力をして相手の時間と、話を聞いてくれる意思に感謝をして無駄にしないように努めないようにする。

今は難しくても、今の最善を尽くして信頼される人を目指して頑張るぞーって感じです。

 

 

まあこっちを人ともみなさずに一方的に罵ったりしてくる人は、同じ人ではないので抵抗しましょう。拳で。

 

 

 

それでは、また。

さようなら。

アイデアの可能性は、誰が決めるのか

「あの課題難しかったよなー、みんなしゃべるのはいいけどアイデアまともなの全然でなかったわ(笑)」

 

11月に入り、少し肌寒さが身にしみて冬を感じ始めたころ。

少し時間を潰そうと、みなとみらいにある蔦屋書店でココアを飲みながら本を読んでいると、就活生だろうか。いかにも慣れないスーツを着こなしている感覚の男女5人が談笑している姿がふと目に止まった。彼らは僕の近くの席に座ると、各々自分が行ったインターンはどうだったとか、イケメンや可愛い子が多かったとか情報交換を始めた。自分にもあんな時期があったなと、少し過去のことを思い出しながら目の前の本の世界に戻る。ただ、

1人の男の子が笑いながら話した、その言葉にまたも思わず顔をあげてしまった。

本の中に再び潜ることを忘れた僕の頭は、やたらとアイデアワークを繰り返していた就職活動のことを思い返していた。

 

 

「〇〇の課題を解決するアイデアを考えてください」

面接官からワークのテーマを発表されると、4人1組に分けられたグループが我先にと動き出す。

タイムキーパーは私が、議事録は僕が書きます、進行役はじゃあ私がするね。

各々の役割が決まっていけば議論が進み、テーマに沿ったアイデアを出し合う。

定められた短い時間内にいかに多くのアイデアを出して、選別し、発表の体裁を整えるのか。

戦場のように方々から声があがり、鬼気迫る表情を隠しながらも笑顔で人の話を聞いて話を膨らませていく。その中に自分がいることが当たり前だと当時は思っていたし、ある程度の役割はこなしていたのだから今では違和感しかない。

それでも一貫して自身の役割は聞き役であり、整理することと割り切ってアイデアを出すことからは一線を引いていたのだけれど。

 

 

昔からアイデアを出すということが苦手だった。

そういうのはいつも、人気者の役割というかセンスのある子の役割で、自分の意見はどちらかといえば面白みのない現実的なものしか思い浮かばない。

 

 

大学生になってボランティア活動をしたり、インターンを行う中でアイデアを求められても今ひとつだった。

よく言われているのはアイデアというのは、既存の組み合わせだというもの。

気取った言い方をすれば知識というピースをあつめて、経験という感覚によって一見新しい絵をつくるようなものだと思う。

今だと少しはその意味が理解できるけれど、当時は面白いものを考えないといけない、突発したものはないかと悩んで思考が停止していた。自分の中にある知識だけで思いつくはずもないのに、特に調べもせず、相談もせずにいつか思いつくのではないかと、誰かがなんとかしてくれるのではないかと甘えていた。

案の定、その時に提出したなけなしの思いつきは採用されることなく大目玉をくらったのだけれど。

 

失敗から落ち込んでアイデアを出すことに臆病になりはしなかったけれど、アイデア恐怖症はなかなか治らなかった。

 

 

 

 時が流れて一応就職先も無事に決まって就活が終わり、自分の研究もある程度ゴールが見えてきたころ。

 お世話になったある人と少しだけお話をする機会があった。飲みに行ったわけではないし、お互いシラフだったが不思議と会話が弾んだ。

自分が興味のある広報や広告の話をすると、当たり前のように最近のCMについてや、好きな広告ってなにかあるかという話を広げてくれる。

就職活動を通して求められている回答をしなければならないという思考回路に陥っていた当時の僕は、自分の好きなことを話すことにかなり飢えていたのだろう。

「これについてどう思う?自分やったらどうするかね?」

自然と話しを振られたことに対して自分なりの答えを返す。今の自分では実現不可能なことを偉そうに意見として述べたのだが、話してすぐに後悔した。

自分や今の組織ではできないこと、妄想を話してしまったことがすごく恥ずかしかった。すぐに「まあそんなことできないですけどね(笑)」と取り消そうと言葉を紡ぐも、返ってきたのは「いやできるんちゃう」という当たり前のことに対して反応したような、なんの嫌味もない言葉だった。意外そうにしている僕の顔を見てどうしんや?と聞いてくれたその人に、意見というかアイデアを出すのが苦手で、妄想みたいなことを話してしまったことが恥ずかしというか、ということをポツポツと話した。「なるほどな。アホやなお前(笑)」と一笑されてしまう。

自分としては結構な悩みだったのだがと思って、少し苦い顔をしていると苦笑しながらわからんでもないけどと続けてくれた。「君の場合は、実現できるかにこだわりすぎや。そのくせ結果は求めるもんやから突拍子もないことを思いつきたいから考えるけど、こだわりがそこにあるから抜け出されへんのちゃうか」知識を求めないことは論外やけど。と、優しくも厳しい話になんだか拍子抜けしたような気が抜けたような感覚を覚えている。

「月並みかもしれないけど、まずはできるかできないかよりはこれやったらもっと便利になるんじゃないか、誰かの幸せになるんじゃないかって視点で考えてみたらいいと思う。そこからそれを実現するためには何が必要なのかを考えて行けばいいいんちゃうかな」

「でも、それだとただの妄想や夢物語で終わってしまってビジネスじゃ通用しないんじゃないですか?」自分の悩んでいたことが少しずつ解れていくことを感じながらも、これまでの考えが間違っていたのではないかと言われているようで反感を覚えた。年下の僕が生意気な態度で噛み付くことにも嫌な顔をせずその人は、一言。

 

「じゃあ、それって誰が妄想や夢物語にしたんや?」

 

「自分の可能なことだけでアイデアを語るな、考えるな。もっと自由で楽しくていいんや。思いついたことを可能にするのはお前だけじゃないやろ。お前の狭い可動域でおもろい企画なんて思いつかんわ。HPを作るWebデザイナー、家を作る大工のおっちゃん、難しいことを簡単に教えてくれる学者さん。世の中にはたくさんのプロがおってそれぞれが協力してできることがやまほどあるんや。プロの可能性を舐めたらあかんよ」

そら突拍子もないアイデアを出したら怒られるかもしらんけどな、最後に笑いながらオチをつけて照れを隠すようにタバコに火をつけて紫煙を吹いた。少し,

考えるようにして、たばこの火を灰皿に落とす。

 

「でも、誰かに相談してこんなことをできるんじゃないかって話をしたら、もっとこうしたらいいとか、これは今やと難しいけどこんなこともできるんじゃないかって助言をくれる人もおるよ。そいつが本気で面白そうやからやってみたいっていう顔をしていたら自然と助けてくれる。っていうか俺もそれやりたいなって思いが自然と湧いてくるもんちゃうかな。そうやって周りを巻き込んでいったら自然と、今できることの最高なアイデアの実現可能性なんて高まっていくもんやと俺は思う。」

だから、これからも色んなことを考えて、色んな人と出会って、おもろいもんをたくさん生み出せるようになりや。タバコをふかしておどけるように笑うあの人の目が、しっかりと僕を見ていたことを今でも忘れない。

 

 

あれから自分なりに知識を少しは増やして、こんなことあったら面白いなということを休日には自然と考えるようになった。仕事として実現するにはまだチャレンジできていないけれど。

社会を変えるとか、生活を支える思いつきというのは知識や経験に裏付けされているのはもちろんだけれど、そこには実現できるかどうかよりも何かしらの想いが先にあったのではないかと思う。1人だけでない、周りの人たちがそこに賛同して磨いて、形を整えていったからこそできたものが今の素晴らしいとされるアイデアなのではないかと思う。

 

 次のインターンシップの話をしている彼らの姿を横目に見ながら、あんなことに悩んでいた自分と比べるとそうやって色々な話ができているようで羨ましい、ついでに年を交換してもう一度大学生に戻りたいと卒業して半年ほどしか経ってないのに思ってしまう。

待ち合わせの時間にも少し遅れそうだったので、勢いで飲み干そうとしたがほとんどすでに残っていなかったココアに物足りなさを感じながら、スタバを後にする。

カップルで溢れかえっていた観覧車の前を通りながら、全員別れろと気持ちを強くもって帰る。

 

 

 

 

 アイデアを考えることは難しいし、形にすることは言わずもがな。

ただ、実現できるのかどうかで考えている限りは中々先へは進めない。実現可能性を測っているのは自分のまだまだ足りていない物差しにしか過ぎないと思うから。

あなたの思いつきが、社会をワクワクさせるものになるかもしれない。

僕のように奥手な人で、考えるのも苦手だし、人に相談するのも苦手な人にこそ一度チャレンジして欲しいので書きました。

一回だけでいいから本気で実現させようと思ってやってみると、案外うまくいくかもしれないし、だめかもしれない。

どうしてもダメだと思ったらやめればいいし。アイデアを思いつくことだけが至高ではないしね。

 

 

どうにも終わりが締まらない。

それでは、寒さに気をつけて。

 

 

めちゃくちゃどうでもいいけど、

この間豚キムチチーズ焼うどんを食べたらめちゃくちゃ美味しかったです。

 

さようなら。

 

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