furufur’s blog

日々の書き溜め。所属している団体、組織には一切関係ないよ。

助けを求める勇気。

仕事をするようになって、平日の朝はスーツ姿の大人たちで溢れかえるイメージが植え付けられた。怠そうに歩く人、眠たそうに目をこすりながらコーヒー缶を片手にしている人、生き生きと背筋をピンとして歩く人などたくさんの大人たちが電車に乗って職場へと向かう。
僕もその末席にいる者として、その日も職場へと向かうため早朝の電車に乗りこんでていた。大阪にいたころと違い、東京へと向かう電車はいつ乗っても満員だ。ほとんどのビジネスマンが席に座って少しの睡眠時間を確保している中、珍しく1つの席が空いていた。他に立っている人も近くにいなかったので遠慮なく座ることにした。職場近くの駅までは30分ほど。いつものように音楽を聴きながら、力を抜いて周りの人のように眠気に身を任せた。

 

 

 

意識を手放して乗り過ごしてしまわないように、うつらうつらとしながら米津玄師のピースサインを聞いていた時だったと思う。「すいません」と消え入るような声が聞こえてた気がした。まだぼんやりとした夢の中にいた僕はすぐに気づくことができず、もう一度声をかけられてようやっと顔をあげると申し訳なさそうにしているおばあさんが目の前に立っていた。少し困ったような笑顔で僕に向かって、赤字に白くハートマークと十字が描かれたカードを見せてくれた。眠気が一瞬で吹き飛び、おばあさんの言わんとしていることを理解できた僕はすぐに立ち上がって席を譲った。「ありがとうございます」と今度はすっきりとした笑顔に、僕は反対に苦笑いを返すことしかできなかった。

 

 

 

目的の駅に着いて職場へと向かう間、ずっとあのおばあさんのことを考えていた。
ヘルプマーク。少し前にSNSで話題になっていたからたまたま知っていたけれど、関西ではほとんど見たことがなかったので慌ててしまった。席を譲ることはなんとかできたけれど、なんとも言えないしこりが残っている。関東での認知度はどれほどなのかわからないが、関西では知らない方も多いような気がする。もしあの人がどこあ遠い場所に行って、同じような行動を起こしても訝しがられるだけかもしれない。困ったような笑顔で、ずっと立つことになるかもしれないと考えると嫌になる。自分から助けを求めることの葛藤や、受け入れてもらえるかわからないといった不安。いくら提示できるものがあるといっても、行動に移すまでには勇気がいることだと思う。その勇気に応えられる人になれるように、少しでも多くの方に知っていただきたいと思います。
困っている人がいれば助け合う。助けを求める勇気に答えられるようになりたいものです。

 

 

 


『ヘルプマーク』は、一見してわからないしんどさを抱えている方が所持しています。現状は東京周辺でしか申請することができず、関東での利用者がほとんどです。
ただ、関東に関係なく公共交通機関、施設などでもし持っている方を見かけて困っていそうだったら一声かけて助け合うことを忘れないでほしいと思います。
助けを求める勇気に答えられるように、少し照れくさいながらも手を差し伸べられる光景が当たり前になりますように。f:id:furufur:20170811224610j:imagef:id:furufur:20170811224642j:image

郷愁

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また帰ってきてしまった。
夏休みをいただいて、嬉々として実家へ帰ってきた僕が冷静になったときに頭をよぎったのはこの言葉だった。実家を離れて4ヶ月。ホームシックになったように1月に一度は田舎に帰る僕は間違いなくホームシックだと言われても反論できない。
自覚はないのだけれど、無意識に慣れ親しんだ故郷に帰りたいと感じているのは間違いない。
実家の居心地はすこぶる良いし、仲の良い友人もいる。東京での1つのきっかけもあり、今回の帰省は特に生まれ育った土地で暮らすことの安心感を感じさせられる時間だった。

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比べるべくもないが、僕の実家がある田舎と現在住んでいる神奈川の家とでは人口密度がまるで違う。見渡しても田んぼも畑ももちろん無く、むしろ30階建ての高層マンションがそびえ立っている。そんな風景ばかり見ていると息苦しさというか、気持ちが閉じていく感覚を覚えてくるもの。
休日を利用してそんな気持ちを払拭しようと東京の皇居外苑の緑があふれるところでリフレッシュを図っていた時に、僕はじわじわと違和感を覚えた。
周りには木々が生え揃い、芝生は柔らかく緑に囲まれているはずなのに。時折吹く風は都会のものとは思えぬほど爽やかで、涼しくて気持ちがいいのにどこか落ち着かない。
僕はこの街に馴れずにいたのだ。

 

 

夢中で走って友達から逃げていた鬼ごっこをした校庭も、
学校帰りに制服のまま馬鹿話を交わしたあのお店も、
母親に手を引かれて初めて行ったお祭りも、
雨の日にカエルを捕まえようとして入った田んぼも、
夏の暑い日も、冬の寒い日も律儀に通った通学路も、
初恋の女の子と遊んだ公園も、
どこか未知のところに続くと思っていた舗装もろくにされていない荒れた細い道は、ここにはなかった。

 

僕の生きてきた記憶と結びつく場所がないこの街は、当たり前だが全く知らない街だ。
似たような施設や、緑はあっても、住んでいる人も違えば、馴染みの場所もない。
どこに行っても一緒だと思っていたけれど、生きてきた場所と自分との結びつきがない場所とでは全く違う。
自分の故郷に愛着なんてもっているとは言えなかったし、こんな田舎早く出て都会で暮らしたいと思ったこともあるけれど。自分とつながっているまちを、できるだけ大切にしたいと思えた。

 

 

まちの活性化を目指す地元の人たちもこんな気持ちなのかもしれない。人生の一部である、自分たちの街がもっと明るくなって、いつまでも残って欲しいという純粋な愛着。

今実家に帰って安心できるのも、もうすぐ終わる。
また帰っておいでと言われても、帰れるかもわからない。
ただ、色んな思い出があるこのまちがあんまり変わってしまわずに、残して行って欲しいと思う
このまちの夕焼けとか、夏になると色が濃くなる緑がまた見たい。

 

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君の名は。が友人に引かれるぐらい好きなのですが、郷愁というタイトルを思いついたと同時に出てきたのがこちらの動画。
俳優さんのイケメンさもあるし、慣れ親しんだ土地を離れて頑張っている方にぜひ観ていただきたい。

 

 


なんでもないや/ CRAFT BOSS inspired by 君の名は。『TOKYO』篇 2分52秒 成田凌 サントリー
https://www.youtube.com/watch?v=92nsRwHvvU4

ダメよ〜ダメダメ

みなさんこんにちは!

昨日から夏休みをいただいているふるふるです。

早速ですが

 

 

 

 

 

夏休みっていいですね!

 

花火、海、かき氷、屋台、お祭り、浴衣、レモネード、夏の夕暮れ…

この季節だからこそ体験できないことがいっぱいすぎて楽しみですがもう1日終わってしまったことに悲しみがすごいです。この喪失感。

 

さて、今回のテーマは「否定」としたいと思います。

 

せっかく意見を出したのに、良い返事がもらえなかったり、周りのリアクションが微妙だったりしたことってありませんか?

頭をひねり出して考えてきた企画や意見なのに、出した途端に面白くないとか、実現性が乏しいなど、ふざけるなよこっちがどれだけ努力してひねり出したと思ってんだ今まで考えもしなかったあんたが偉そうにしてるんじゃないよ清水の舞台からジャーマンスープレックスかけて竹林に沈めやろうかと思ったりもしたことがあるんじゃないでしょうか(私は一切そんなこと思ったことはありません)。

否定されると、やる気もなくなるし、自分にも自信がなくなりますよね。間違っているのかとか、もっといいものを提案できるようにならないとなって落ち込むこともあります。

 

ただ、ダメと言われからといってその意見を無かったことにするのはもったいないと思います

(根本的にダメと言われたのならもう一度考える必要がありそうですが)、それは相手に言われた否定の意見も含めてです。

 

例え話を一つします。

付き合う前の女の子とデートに行くときに服装を念入りに考えて母親に意見を求めて男の子がいたとしましょう。お母さんは今時のファッションなどわからないので、男の子のチェックシャツインスタイルという選ばれた者にしか許されない服装にも「似合ってるよ!」としか言えません。自信満々で行ったデートでは、女の子に10mほど常に距離を取られて最後に苦笑いで楽しかったよってブロックされて1つの儚い恋が終わります。

ここで、ファッション好きのお姉さんに意見を聞いていたらどうだったでしょうか。

きっと男の子は罵倒の嵐を受けることになりますが、自分の服装がデートに適していないということが自覚できたのではないかと思います。タンスの奥から引っ張り出してきた服をコーディネートしてもらい、デートだってうまくいったかもしれません。

 

企画とか、提案とか学業や仕事でも一緒です。

蝶よ花よと大切に、みんなに受け入れられて過ごすのは気持ちがいいですが、より良いものを作るとき、自己満足で終わりたくないときには周りの方の視点の違う意見に耳を傾けることも必要。自分の感覚だけで終えてしまうといつまでたっても、自分の視点しか持つことができずに狙った成果を得ることが難しくなってしまいます。

 

否定されることで初めて見えてくるものもあります。

愛と考えがない否定はただ人の努力と時間を無駄にさせるだけですが、建設的な否定は対象を見つめ直させる切欠を生み出すことができるのではないかと思うのです。

 

自分が気に入らないとか、考えなしになんとなくの否定には耳を傾けずにジャーマンスープレックスを心の中でしかけて平穏を取り戻しましょう。

 

思いがけず自分のことを否定されたときには、どうしてわかってくれないのか!と憤るだけでなく、なぜダメだったのだろうかまで冷静に考えてみてください。

ダメと言われると、怖いし、怒りたくなる気持ちや不安にもなりますが、そこまで意識を向けてみると次への成功までの道のりが見えてくることも多くあります。

うわーもう聞きたくない!ってことでもぐっと堪えて自分のものにする。

 

絶対次はいいものにしてやる!って気持ちで色々ほどほどに頑張りましょう。

 

みなさんの夏をいっぱい楽しんでくださいね。

それでは。

 

違いを出せる人に

 みなさん、こんにちは!

 最近体調が悪くなって病院で処方してもらった薬を飲んだらさらに悪化したふるふるです。

副作用怖いですね。副作用が治療効果を上回ったらもはや毒ですから気をつけてください。

 

 さて、今回はお仕事についてお金にまつわるお話です。

私自身はいわゆるサービス業を仕事にしているのですが、最近先輩から言われた仕事をしてお金をもらっている以上は手を抜かないようにしなさいというお話をいただいてそうだよな、わざわざお金を払ってもらうサービスをしているんだから頑張らんと。

と、意識を改めてることになったのですが、お客さんってなんっでお金を払ってくれるんだろう。

 自分の仕事だけでなく、生活品や雑費など色々な商品がありますが、結構似たような、まるっきり同じような商品、サービスも多い。その中でなぜ、自分も含めた生活者の私たちは1つのものを選択して購入していくのか気になったので、私なりの考えを書いて見たいと思います。

 

 

 

商品、サービスを購入するときに私たちが考えていること。

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 例として、靴を出して見たいと思います。

7月も終わりと最早夏真っ盛りなので、夏用の新しい靴を購入された方もいらっしゃると思います。

靴屋さんに行き、お目当てのくるぶし辺りが出ている涼しげなスリッポンとか買って夏を乗り切るぞとなったことでしょう。

 

 ただ、靴にお金を払っているこの行動にも様々な葛藤が購入者の方にはあります。

単純にスリッポンでいいなら値段が安いものを選ぶか、目についたものを購入すればいいはずです。でも、おそらく色合いや、デザイン、どこが販売している靴などを確認して買った人が多いかと思います。買うときの理由としては料金を大前提として大きく分類すると、「機能」「嗜好」「信頼」の3つの分類に分けられます。

 

 

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「機能」というのは、今回で言えば「涼しくなれる靴」という部分です。通気性、熱に耐えられる素材なのかなど。

「嗜好」は、デザイン、好きな、もしくは服装にあう色合いかどうかなど個人による感覚が占めるもの。

「信頼」とは、商品自体というより販売元の社会性、安全性、品質など世間の評価。

 

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 単純な機能だけで私たちはきっとモノを選らんではいません。

自分が求めているものを無意識に判別して、取捨選択しているのでメーカーは商品を作っただけでは売れません。

サービスだったら提供者の対応、コンセプトの徹底、質の高さで社会での存在が許されるか決まってしまう。

「良いものを作れば売れる」という言葉がよく使われていますが、今は良いもの、サービスを提供しているだけでは中々売れない。比較することが当たり前になった時代にどうやって人に気に入ってもらうのかを考えることは必要不可欠です。

 

 

仕事ではどこを「違う」と思ってもらうのか。

 だからどうした、そんなもん知っとるわぼけと言われればそれまでなのですが、社会人となった今この3つを意識して仕事に活かすようにしていければなと思っています。

会社など組織に属しているのであれば、自分たちの特化している部分はどこなのか、どこが弱いのかを知っていれば強化したり補完していけるようになるのではないのかと。自分の仕事に当てはめると、どういう部分になるのか一度確認して見てください。

 お金を払ってもらうほどの、どこにも負けない社会活動を行うにはこの分類だけを意識しても難しいかもしれませんが、大企業と呼ばれているところを見て見ると結構この3つを最低限の水準みたいしているところが多いように感じます。

 負けたくない人や、組織がいるのなら自分に当てはめて頑張っていきましょう~

僕らは続きがあるから。またね。

「よく帰って来るね」


東京から一度帰って来た僕を出迎えてくれたのは、久しぶりにあった友人の言葉だった。
少しだけの時間だが近況を話し合い。相変わらず益体もない話題を行ったり来たり。
何の生産性もなかったかもしれないけれど、楽しくて幸せな時間を過ごすことができた。
大阪の夜に見えた通天閣になぜか感動してしまったときは少ししんみりしてしまったが。

 

 


東京で働いてからもうすぐ2ヶ月が経とうとしている。
こちらへ出て来る前は「都会やワクワクする」という感情と「知らない人、土地でやっていけるか」という漠然とした不安を抱えていたがその思いも懐かしさを覚えるぐらいだった。
実際仕事に取り掛かればそんなことを考える余裕はないし、人間関係にも恵まれているのでだんだんと不安も期待も薄れてきている。
ただ、故郷への感情というものはやはり存在するようで22年間過ごして来た思い出を振り返ると切なくなるのは確かだ。
それもあって今は1ヶ月に1度ほどのペースで実家へ帰っている。
ただ両親と会う時間というよりは、友人やお世話になっている人との時間がほとんどになってしまうが。
よく会う友人には東京に行ったのに、会う頻度変わらへんやんと言われて口では否定しながらも心の中では確かに実際そうだなと頷いている。間違いない。
送別会もしてもらったのに、もうすぐ間を空けて帰ってこいという話だ。

ただ、東京での知らない土地に対する不安感とか、知り合いの少ない寂しさだけで帰っているのだけではないと強調したい(もちろんそれらも大きな要素なのかもしれないけれど)。
会える人には、時間を割いてでも多く合っておきたいし大切にしておきたい。

そんな中学校以来の感情を、僕は今持て余している。

 

 

 


あのころの僕は特に青春をしているわけでもない、ほどほどに好きな子がいて友達がいて放課後になればみんなでゲームを持ち寄って遊ぶなどしていたただの中学生だった。
少しばかり校則が厳しいだけの普通の中学校で、小さい不満はあれど成績も普通の生活を送っていた。だけれど少しばかり弊害が存在していた。どうしようもないと、死にたくなるほどには人生に辟易していた。黒歴史というなら、文字どおり中学生時代が当てはまる。
そこらへんは割愛するとして、そこから脱出したのが中学3年時代。
今の僕を作ってくれたのは恩師と呼べる人の言葉と、クラスメイトだった。
中学校の卒業式、学年1仲が良いと言われていた僕たちのクラスではみんな号泣していた。
ヤンキーと呼ばれていた顔がこわい男の子も、かわいらしかった女の子も。
このクラスから離れたくないという思いを、みんなどこかできっと持っていたのだと思う。
そんな僕たちに声をかけてくれた、担任の先生の言葉を。
今でもはっきりと覚えている。
「お前らがそんなに仲良くなったのは、お前らのがんばりがあったからや。
横のやつの顔見てみ。もう友達やろ。前も、後ろも、斜めのやつも。中には苦手なやつもおるかもわからんけど、それでもお前らほんま仲良いよな。なんでかわかるか?
最初に言うたけど、がんばりやで。人と人との付き合いは努力や。嫌なこと言うてしまうこともあるし、自分とは合わへんって感じるやつもおる。だけどそこで諦めたら人付き合いなんて終わりや。お互いが相手のことを認めて、近づく努力をしてないと仲良くなんて絶対なられへんねん。一人だけ近づいても、片方が離れたら距離なんて変わらんやろ。お前らが努力してお互い離れんかったから、今の仲があることを絶対に忘れたらあかん。そうやってほんまに仲のいいクラスをつくったお前らを誇りに思うよ。これからもお前ららしく胸をはって歩いていけ!卒業おめでとう」

僕の人付き合いに対しての考えたが変わった、人生が変わった瞬間だったと思う。
自分の周りにいる人は、僕のことを諦めないでいてくれた人たちなんだと。
僕の近くにいてもいいと思ってくれている人なんだと。
中には嫌な思いをさせてしまったこともあるし、させてしまっている人もきっといるんだろうけれどそれでも離れないでいてくれる。
そんな人たちともっと一緒にいたいと思うし、話したいと思う。
今会えるうちにあって、忘れられないようにしなくちゃって。
いつか言葉とか文字だけじゃなくて、感謝できるようにしなくちゃなと思う。

 

 


「よく帰って来るね」
という言葉に、少し申し訳なさと言うか自分の堪え性のなさを自覚させられるけれど。
また帰ってこられたとも思う。
東京で出会った人もいるし、その人たちも大切にしたいけれど、これまで自分と関わってくれて今もあってくれる人にいつ会えなくなるのかわからないという思いがどこかいつもある。
そこから逃げ出して、これまでの関係の中で過ごしたいと思う時も少なからずあるけれど。
胸を張って歩いていくためにはきっとそれじゃ納得しないし。
今まで以上に頑張ってみよう。
たまに会いに行っても相手してくれるみなさんに忘れらないように頑張って。

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あの夏が終わった。

学生の時、恋愛のことで失敗をしたなあと今でも顔を枕にうずめて死にたいと叫ぶ思い出がある。

 


6月の梅雨に入ったぐらいの時期に出会った彼女とは、図書館で出会った。

受験を控えていた私は休日も勉強に明け暮れる日々を送っており、その日も地元ではない少し遠くの町の図書館で勉強していたのだ。雨の鬱陶しさに負けまいと傘をさして入館すると、案の定人がほとんどだれもいない。
新聞をよんでいるおっちゃんや、司書のお姉さんたちが静かにお仕事をしている風景。
休日でしかも雨なのだからいつも以上に閑散としている。
人っ子ひとり利用していない長い机にスタンバイして勉強の体制に入ると、苦手だった英語の参考書を開いた。

 


雨の音だけが少し館内に響くような、リラックスした空間で集中していると図書館に来て一時間ぐらい経った頃だろうか、一人の女の子が同じ勉強机で本を読んでいることに気づいた。
この施設に勉強できる机はここにしかないのだから、勉強をするならここに来るのは当たり前だったが彼女が読んでいた分厚い本に「マグナ=カルタ解説」と書かれているのを見たときには正気を疑った。
お世辞にも頭がいいとは決して言えなかったが、唯一自信があったのが世界史である私にとってマグナ=カルタについて勉強をする同い年ほどの学生がいるとは思わない。
受験のストレスでおかしくなってしまったのだろうかと失礼な感想を見知らぬ彼女に抱いていると向こうも変な視線を向けて来るこちらに気づいたのか、目があってしまう。
何とも言えない空気となり、私は慌てて英語の文章に助けを求める。
落ち着いて勉強しようと気持ちを切り替えて長文問題へ取り組んでいると先ほどのマグナ=カルタさんのことはいつのまにか頭から抜け落ちて気がつけば夕方になりいなくなっていた。
まだ会話すらしていないあの人の第一印象は、よくわからない人だった。

 

 


休日になるとお決まりの図書館へ出向く勉強はそれからも続いた。
マグナさんも土曜日には勉強机で、「三国志」や、「マハーバーラタ原典訳」を読んでいるというあいかわらずっぷりを見せてくれる毎日。特に会話などあるはずもなく、来ると大体いるというよくわからない相手という関係が生まれているだけだった。


8月になり夏休みに入ったころに、その関係も少し変わる。
きっかけは私がその時読んでいた本だった。
受験に必要なのは英語だけではもちろんなく、国語や世界史といった分野にも手を伸ばさなければならない。その日世界史を振り返っていた私は、学校の先生からオススメされた本を読むことにした。ただ事象だけを追っても理解は深まらないし、本を読むかともっともらしいことを思いながら「夜と霧」という本を棚から持ち出した。ユダヤ人が強制収容されたアウシュビッツ収容所の惨劇。第二次世界大戦という凄惨な出来事の中でも一際残虐性が目立ったこの事件のことを書いた本である。著者の実体験が書かれたこの本は当時思春期の私には少しくるものがあったが一時間ほど読み進めることに成功していた。全ては読み終わっていないが、小休憩としては十分だったしそろそろ教科書とのにらめっこを再開するかと思った時。
「夜と霧ってどこにありますか?」と少しか細いが可愛らしい声が私の耳に届いた。
思い返すといつも本ばかり読んでいたから彼女の声を聞いたのは初めてだった。

声のする方向に目を向けると、カウンターで司書のお姉さんに本の在り処を伺っている彼女がいた。少し話をしたあと、下を向いて残念そうにしながらこちらに近寄って机に座り、別の本を読み始めた(今度はアーサー王物語だった)。居心地の悪くなった私は持っている本を返しにいこうと思ったが、それでは彼女にとって手間だし、何より私の意気地がないように思えたので思い切って声をかけた。
「この本、読みますか?」今思えば、なんてたどたどしかったのだろうと思う。同じ学校でもない、他校の可愛らしい女子と話すなんて難易度の高い真似をしているという理由を差し引いてもいきなり何を言っているのだろうと気持ち悪がられてもおかしくなかった。
そんな私の最悪な予測は外れ、「夜と霧」を私から受け取った彼女は「ありがとうございます」と少し微笑を浮かべてお礼を言ってくれた。

そこからは「よく図書館にいますよね」という話になり、5回ほど顔を合わせているにもかかわらず私たちは初めて自己紹介をした。やはり彼女は他校の生徒で私より偏差値が少し上の図書館にほど近い学校に通う受験生。以前から気になっていた疑問をぶつけようと、「マグナ=カルタとか前読んでたけど渋いね?」と話題をふると彼女は笑いながら「読んでても全然わかんないけどね。世界史を勉強してるから教科書読んでると出て来るものが気になっちゃって読んじゃうの」と応える。
なるほど。どうやら受験のストレスで精神がやられていたわけではないようだ。

お互いに人通り話たいことを終えると、ようやっと名前が判明したSさんがどうせまた会うんだし連絡先交換しよと言うので私は嬉々として連絡先を伝えて私は先に帰宅した。

 

 


夏休みの間は友人たちと遊ぶことはもちろん欠かさなかったが、勉強ももちろん続けていた。
学校の夏期講習があったので図書館にはあまり行かなかったがSさんとのやりとりは細々ながらも続いていた。お互い本が好きということで、この本は面白くない。あの本のこの部分が好きで堪らないよねという話題で盛り上がったり、受験の意味などについてディスカッションしたりしていた。
Sさんとのやり取りを友人たちに話すと、「付き合えばいいじゃん」「はやくデートいけデート」という揶揄するような声ばかりかけられる。「そんな関係じゃないんだ」と言い張るも、「やましい気持ちが一切ないって誓えるのか!」といったからかいに、言葉がつまる。
クラスの女子とも違う、今時の女の子っぽくない価値観を持つ彼女に惹かれていたのを自覚したのはその時だったかもしれない。
その日からなんだか彼女と話をするのがこっぱずかしくなりあまり連絡しないようになってしまった。恋愛なんて経験ほとんどなかったし、自分に自信もなかった。受験シーズンにそんなことしている場合じゃないと言い訳をしていたのである。
Sさんからの連絡は少しくるものの、空返事なのがバレたのか連絡の頻度は目に見えて落ちていった。

10月に入ったぐらいだろうか、秋も深まると言うところで彼女から地元で行われる古本市に誘われた。正直未練タラタラで、友人たちからもしつこく言われていた私はこの誘いに飛びついた。

古本市は京都でやるような大規模ではなく、広めの公園で地域の数書店がためていた本をおよそ正価とはかなり落ちた価格で販売するものだ。
私たちはお気に入りの作家の本があれば舞い上がり、どこかで聞いたような名前の本があれば手にとって読んで見るなどした。
彼女といると、心が浮き立つし胸がしめつけられる。
本の中で読んでいた表現には、どんな状態だよと突っ込んでいたけれど正に的確な表現だと感じた。

古本市から帰り、お決まりの図書館へと寄った私たちは近況を報告しあって別れた。
帰宅してすぐに友人たちへと連絡して今の気持ちを伝えると、いけやいけやの大声援。
これはいくしかないと彼女へ電話をかけたことを思い返すと死にたくなる。
結果は「ごめん、大事な友達としてか見ていなかった」という言葉で察してほしい。

 

 


友人たちに唆されて舞い上がった私は周りが見えていなかった。
恋に恋する男として、自分勝手な思いをぶつけてしまっただけだったのだ。
好きになってもらおうと大した努力もせずに、この思いをぶつければ何とかなる。
思いだけでも伝えれば後悔はしない。
とんだ勘違いもいいところである。
彼女に好きになってもらえればどんなに幸せだろうかと、妄想にふけっていてはいつまでたっても1人のままだ。


1人よがりの身勝手な思いが、身を滅ぼした瞬間を思い返すと休日でも死にたくなる。
気持ちを通じ合うことを望むなら、こちらの思いだけが準備万端でもいけないのじゃないかと恋愛なんてこれっぽちもわからないけれどそれだけは確かだろうと。教訓を得た出来事だった。

 

 

 

 

また夏がやってくるよ。

 

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※この物語はフィクションです。物語中に出て来る団体、出来事は一切現実には(少なくとも私の身にはおきておりません)こんな青春おくりたかったちくしょう!

キタイする自分

「あなたは何をしたいですか?」
私たちはこの質問を飽きるほどされてきたような気がする。
学校の授業で、家族の中で、時には友人や恋人とも話の中でも。

大人になるにつれてその答えは具体性を持って、こんな仕事をしてみたい。こんな人になりたい。こんな生活を送りたい。といったものになってくる。
将来のヴィジョンというか、社会で色々なものに触れていると今後の自身の可能性がいい意味でも、悪い意味でも見えてくるんですよね。ウルトラマンになりたいとか、エヴァンゲリヲンパイロットになりたいとかそういうものがなくなっていく感じ(今でもそういったものを目指されている方ごめんなさい全力で応援します)。

現実に即した目標を掲げることがいいとか、悪いとかは置いておくとしてある程度明確な目標なのでそこに向かう道筋はだいたい想像がつくものになっているはず。
ただ、私の経験から言うと道筋はうすらぼんやり見えていても中々踏み出そうとしないことが多いです。
お金持ちになりたいという目標を持っていたとしましょう。
将来はプールと庭が付いていて、20部屋ぐらいある豪邸に新垣結衣のような最高の奥さんをゲットしたいと思っている。
だけれど、思うだけでお金を稼ぐための勉強もしなければ人脈作りも、新垣結衣に近づこうともしない。30歳ぐらいの自分がなんとかしてくれるだろうとか、勉強は明日の自分に任せて今日は友達とどんちゃん騒ぎだぜ。今の自分には知識も、経験も足りていないから無理だなんて。
未来の自分への意味のない期待をして。
今の怠惰な自分が未来の自分につながるのに、そこまで期待なんてできないのに。


本気でやりたいと思うなら、誰にも憚ることなく今からやってみる。
学生だし、新人だし、何もわからないしという今の状況に囚われることなく。
未来の自分へ無責任に託すことをせずに。
やってみると案外うまくいくかもしれないし、足りないなら今から埋めて行くんだ。
「あなたは何をしたいですか?」という問いに対して、胸を張って答えられるように。
いつかあなたが望むすがたを周りの人に誇ることができるように。

あなたの夢が叶いますように願っております。

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七夕に投稿すれば綺麗だったな…