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歯磨きは健康の元

 

 

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僕は今日、ある場所を訪れた。

 

「〇〇歯科医院」

そう、歯医者である。
歯というのは人間の身体の中でとりわけ扱いが難しいものである。
何せ肉眼では見えないのだ。
鏡を使えば口内を見ることも可能ではあるが、奥にいけばいくほど目視が難しくなる。そのため歯ブラシなどを使っても最終的には歯ブラシ越しに伝ってくる歯の感触を自分の手で感じることでどこが磨けていて磨けていないのかを判断する。
僕は朝、晩と1日2回歯をブラッシングするが、この作業が1日の中で一番神経を使っている気がする。

 

 

何はともあれ何度かお世話になっているお馴染みの歯医者だ。
清潔に整えられた待合室、子どもが退屈しないようになのかルービックキューブや知恵の輪といった少々対象年齢高めじゃないかというおもちゃが一角に固められている。
受付にいるマスクをしたお姉さんは既に施術が終わったであろう男性のお会計をしているところであった。ところで歯医者にいる衛生士や医院長はマスクを外さないがあれは必要なのだろうかといつも思うのだ。確かに衛生上、予防のために必要だというイメージはある。
だがそこまでして危険だと思うものが歯医者にあるのだろうか?
集中治療室ではあるまいし、危険なウィルスがとびかっているわけでもない。そのウィルスを持つ患者が来る可能性はあるかもしれないがそのことに気を張っていっては精神がイカれてしまうし、そんな患者はまず歯医者にこない。
紹介状を書いてどこかの研究所へでも送ってしまえそんなやつは。

 

あるいは患者がいきなりキスをしてくることを危惧しているのだろうか。
キスというのは口腔内の細菌が相手に移るという可能性があると何かのテレビで見た記憶がある。
なるほど、歯医者に来る患者というのは例外なく口腔内の歯に異常があるから来るのであって健康な歯を害する菌を持っている可能性があるからか。
そう考えれば納得がいくというものである。歯医者のスタッフさんがつけているのはキスガードマスクというものなのだろうか。存外、歯医者には清潔で綺麗な衛生士の女性が多い。不埒で不潔な男の魔の手を防ぐために自ら顔を覆って防御しているとは涙ぐましい努力ではないか。
世の男性はもっと歯医者の女性に誠意を持ってその身を委ねるべきあるという思考をしていると、受付の女性が呆れた様子でこちらを見ていた。
待合室に入ってずっとボーッと上を突っ立っているものだから変な奴が来たのではないかと思われたらしい。

これからお世話になる方々にそんな好感度を下げるようなことをしてはいけない。精一杯の爽やかスマイルと、僕は好きでもない女性とキスをするような浮気者ではありませんという気持ちを持って受付を済ませた。

 

 

 

10分もしないうちに名前が呼ばれ施術室に入る。早い。まだルービックキューブも解いていないのに。


施術室に入ると、そこには黒髪の乙女が立っていた。マスク、いやキスガードマスクをしていて顔の半分ほどが隠れてしまっているが僕にはわかる。
めちゃめちゃ可愛い。くりっとした二重の丸い目に、控えめに引かれたアイラインが綺麗というよりはかわいらしいという印象を際立たせている。白い肌に少しだけ化粧がのせられマスクからはみ出た頬のあたりが少しピンクを帯びている。これが本当のナチュラルメイクなのか。男が思う顔が可愛い女の子が薄くした、けれど雑ではないどこか黄金比を思わせるほどその元の顔の良さを何倍にも引き上げる選ばれたものにしか扱えないナチュラルメイクという奥義。僕は今それを、目の当たりにしてしまっている。マスクをしている女はだいたいコンプレックスを持つような見た目だと友人は言っていたがとんでもない、僕にはそのマスクの下に笑うと出てくるえくぼまで見えているぞかわいい。

 


歯医者で働く女性の警戒度も理解できる。これほどの美女を目にすれば普段から欲にまみれた男どもであれば確かにその唇を拝みたいと必死になるかもしれない。
キスガードマスクは数多くの涙に濡れた女性の歴史に裏付けされた産物なのか。許すまじ下郎どもめ。こんな街で会ったら絶対三度見するような美女と社会的地位と引き換えとはいえ接吻をするとは羨ましいけしからん。


そんな思考に引っ張られながらも僕は受付での失敗を思い出し、優雅に用意された可動椅子へと座る。
僕は紳士なのだからこの程度の状況で自分を見失わない。
キスガードマスクの下にある魅惑の唇にさえも心は揺れるが身体は椅子に固定したままだ。
紳士たるもの下心より女性の気持ちを優先するもの。
さながらこれからコーヒーでも飲むかのように椅子に深く腰掛け、足を組み施術の準備ができるのを待つ。
待つ間備え付けられていたラックから新聞を抜き取り経済面をチェック。
なんて紳士たる振る舞い、イエス紳士ノー俗物。


そして準備が終わったのか、椅子が後ろへと倒されていく。
僕の口内を明るく照らすための照明に少し目をやられながら、頭の上に来た彼女の顔に微笑む。

ついに、時は来た。
僕の紳士力が試される時間だ。


元々虫歯の治療で来たのではなく、定期検診という目的で来ているのでそれほど大層なことをするわけではない。
先端が丸みを帯びて内側に曲がり鏡がついたような器具を口内に入れられ、歯に異常がないかを見られる。
気分はまるで人体模型であるが、検査しているのが彼女であるのでよしとする。
口を開けたまま乙女の検査が終わるまで待つ。
多少磨き残しがあるとかで、歯の掃除をするらしい。歯磨きというのは個人でやるとするとどうしても汚れが取れない箇所が出てくるのは致し方ないことなのでありがたいことだと申し出る。
このような乙女に歯を綺麗にしていただけるなんて一生ものの思い出だ。

また口を開け、今度は水が勢いよく噴き出す機器を歯に当てられる。水流で
歯にこびりついた歯垢を取り除いているのであろうが、ほとんど痛みを感じない。むしろ今まで取れなかったけどものが取れたことに対する気持ちよさすらある。僕は彼女が奥歯に機器を当てようとするなら口を適度に開け、前歯と奥歯の間にある歯ならば少し口を閉じかけ横から水流を当てやすく調整する。まさに阿吽の呼吸である。彼女が次にどこを掃除するのかを予想し、そのポイントをどれだけ手軽に処理できるのかを考えて口をひらく。


これはもはや僕と乙女との共同作業と言ってもいいのではないだろうか。もし彼女と結婚することが万が一あった初めての共同作業は歯のお掃除でした(笑)なんて話をする機会もあるかもしれない。

妄想が終わると次は歯茎のチェックと残った歯垢を取り除くということで鉤爪のような器具を取り出す彼女。一瞬恐怖の色を顔に浮かべる僕だったが、この美女が人を傷つけるようなことなどするわけがないと気持ちを落ち着かせる。
この乙女の前では大口径の拳銃すら祝砲のための道具にしかならない。
そんな確信と妄信に身を委ねてリラックスする。さあどこからでもお好きなようにいじくりまわしてくれと言わんばかりの力の抜け方だ。こんな仕事は早く終わらせて水族館にでもくりだそう。ジンベエザメでも見て穏やかさと大きさに心を癒されながら帰りに抱き枕でも買って2人で使おうじゃないかと今後のことについて考えを巡らせていた時だった。

 

 

 

鋭い痛みが身体に走る。あまりの唐突さに思わず呻き声をもらしかけるが、口が思うように動かないためくぐもった声が喉から絞り出されるように発される。
何が起こったのかと涙で少し霞む視界を衛生士さんの方に向けると、そこには血についた器具が手に握られていた。紛れもなくそれは僕の血で、その器具が先ほどまで存在していたのは僕の口。うっすらと舌に鉄の味が味覚に残る。どうやら歯茎で隠れた歯垢を取る際に出血したようだ。

 

僕は言葉を失った。
先ほどまで2人で水族館に行き、ジンベエザメを彼女の肩を抱きながら見ていたのが嘘のようだ。ジンベエザメが泳ぐ透き通った水がどんどんと血の赤で塗り替えられていく。
苦しそうに泳ぐ彼はどんどんとその動きを鈍くしやがて、力を無くしていった。驚いた僕が隣にいる彼女の顔を見ると、そこには血がついたマスクを能面のような表情の上にかけた悪魔が立っていた。

 

彼女は僕に口をゆすぐように促すと、血にまみれた器具を掃除している。
先ほどのイメージは僕の妄想だったのだろうか。頭の中を整理するために横に置かれたコップに入った水を口に含み、吐き出す。
稼働椅子に備え付けられた小さな水吐き場には少し血が混じった水が遅く吸い込まれていく。
夢なら覚めて欲しい。
ここにいたのは、黒髪の乙女ではなく黒く笑う悪魔だったのだ。

 

 

どれほどの時が流れたのか、もうわからない。5時間だったのかもしれないし、20分程度だったのかも。痛みで引き伸ばされた時間感覚は、僕の思考もあやふやにしていた。
覚えているのは、痛みに苦悶の表情を浮かべた僕を見下ろす無機質な目と、僕の血にまみれた器具の姿だけだ。
おそらく自分の感覚ほど出血はしていないはずだが、ひどく血が抜かれた後のような倦怠感が身体にまとわりついてる。
そんな僕に構わず、黒髪の乙女もとい悪魔さんは僕に向かって世間話をしていた。虚ろな頭では何を言っているのか理解しづらい。完全に純潔を無理やり奪われた顔をしている僕に向かってなぜそのような最近の天気の話などできるのだろう。少し前までは今日の天気のように澄み渡った青空のような心が、今では血の雨を降らす陰鬱な色の雲に覆われている。この人はあれなのか。拷問を専門としている衛生士さんなのだろうか。油断させておいてまた治療をして、僕の心を削いでいくつもりなのか。
だとしたら大したものだ、僕の心はもう燃えかすになっている。
恋に溺れた、不埒な妄想をしてしまった罰なのだろう。

 

彼女に罪はない。仕事であり、僕の健康を維持するためには必要不可欠なことなのだから。
患者である僕が依頼したのとは違う内容とはいえ彼女は職務を全うした。最初からそういう関係だったのだ。

 

そうやって自分を慰めていると、治療が終わったことが告げられる。
次は1ヶ月後だそうだ。
僕はこの時決めた。

 

 


1日1時間使ってでも歯磨きを完璧にして、磨き残しを無くすと。

僕の精神的健康を守るために。

 

お会計もここの病院は早かった。
やりかけていたルービックキューブは、結局解けなかった。

 

 

※この作品はフィクションです。

実在の人物、団体、歯医者さん、施術方法とはほとんど関係ありません。